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【お引越し掲載】あるストーリー 終わらない宝物探しの途中

いつも十中八九面白いことを考えている人から紡ぎ出された言葉は、軽快さを漂わせつつも、ちょっとした重みで僕らの中にズシンと刺さる心地よさがあった。そもそも学生時代に全然違う業種を志望していた過去があったことにも驚きがあったが、何よりも突然語られ始めた風にまつわる話が衝撃的だった。たぶんどんなインタビューをみても、風について語っているものはないだろう。でも、そこには確かな哲学があって、非常に面白い話を聞くことが出来た。

風に吹かれることが好きだった

自身はどこかにアホなことはないかな、オモロイことは転がってないかってことが自分の基本欲求としてあるみたいで、自分はそういったものに出会ったり触れたり見たりしていることが出来たら、喜ぶし楽しいとか嬉しくなる。そこの欲求が強いとそういったものが向こうからやってくる。ありがとうって言いながらね(笑)そんなケースが多い気がします。

だから無闇に宝物探しに行くわけではないから、やたらめったら宝物探しの穴を掘りまくっているかと言うとそうじゃない。もちろんそれなりにジッとしているわけではないけど、みんなが思っているほど無茶苦茶アクティブでもないかな。

でもここを掘ったら何か出てきそうなことを感じるときはあるよね。そういうときは思いっきり掘るやん。周りはまた掘ってる、また掘ってると言ってくるけど、こっちが掘る前に探している瞬間って人は見てないよね。周りはのべつ幕なしに掘っているように見えるみたいやけど、意外とそのあいだは余白ではないけど、ぼやーっとしていたりすることも多いよ。

最近だけじゃなくてずっと思っていることやけど、風にあたる感じってあるやん。丘の上なんかで風に吹かれるってことあるやん。そういうときって服は着てるけど、ものすごく気持ちが良いんだよね。風に吹かれてものすごく気持ちが良いのは、別にど田舎の山に行かないと出来ない体験でもないし、どこにでも風を感じれることは出来るよね。

でもみんな風を感じることが出来る余裕は都会では無さそうに思うから、わざわざ風を感じたいがために田舎でキャンプしたりするわけで。別にそれは悪くないけど、いやいや全然都会でも出来ることやと思うんだよね。僕は風を感じるほんの10秒くらいが堪らないんだよね。ずっと持論としてそれを思ってるんやけど、あんまりみんなでご飯を食べに行ったりするときに、全然風に吹かれたら気持ちいいですよねって話にならない。みんな絶対あると思うんやけどね。こんな風に吹かれることが好きなんて話をするのは初めて。

風に吹かれるのは言葉にならない感覚でも何でもなくて、当たり前にある感覚やん。強すぎず弱すぎずなええ風ってあるやんか。ちょうどいい季節とか、夏場とかでもちょっと涼しめの風が入ってきたりするときのあの感じは堪らんねんけどなぁ。もしかしたら最高の風が吹かれる場所を探すのが、宝物探しかも知れないし。(笑)

だから住む場所でも、それこそリノベーションしたら、入り口のエントランスに入ったところでええ風が吹くような間取りになってると、歩いてると横から風をうまく感じることが出来るような部屋が意外といいんじゃないかな。だからいい風が来てない場合は無理くりにでもいい風を起こすようなリノベーションをお願いしたいなって思うね。

要はオシャレとかもちろん空間の見た目で住みたくなることもあるかも知れないけど、新しいカタチのリノベーションがあるとしたら、風にこだわる家とかどうだろうね。

ほとんどの人は余白を作らないとダメやと思うけど、みんな余白を作る意味合いや重要性を分かっていれば、それを意識的に作ってはると思う。僕の場合で言えば今や余白が仕事の中心みたいな感じになってるけどね。

僕はテレビ番組の演出を二十数年やってきたし、その世界は視聴率という成果が週単位で必ず出てくるから、毎週毎週のルーティンが仕事のなかにあった。もちろん僕らは視聴率を上げたり、視聴率の高いポジションで安定的に安心したコンテンツを供給するのがビジネス的に良いんだろうけど、僕らはそれ以上に先進して良いものを届け、ずっと楽しんでもらえるコンテンツを作っていた。

ずっと楽しめるものをやっているか平坦にやっているだけじゃなく、例えばダウンタウンDXだと同じようなコーナーに見えるかも知れないけど、毎回の味付けがほんのり変えたりしながら、いつまでも飽きないものを作る。逆に言えばそもそも視聴者は飽きてるけど見れてしまうような番組づくりをやってきた。

毎週の結果を背負いながらやっていたから、視聴率が奮わなくて番組が一週間の命になるかもとか、来週何かが起きたら番組が終わるかも知れないという想いで番組作りはやってました。他方いま僕のやっていることで言えば、いつまでに何かコンテンツを生み出すってことではなく、強いていえば宝物探しをしているようなところがある。そんな宝探しのようなこの余白の部分を大切にしていきながら、仕事で何を見つけることが出来るかなとさがしています。

自分が番組作りをしているとき、余白が無かったのか宝物探しをしていなかったのかと言えば、実は延々と物心がついたところから、僕にしか見つけられない宝物があるはずやと思っていたし、さらにそれを未だに探しているところかも知れないと思ってます。

仕事は仕事でやることがあるし、もちろん事業を立ち上げたり番組を立ち上げたりすることはあって、それは成果を問われるんだけど、でもそれは探している宝物じゃないかも知れないよね。探したい宝物って一生見つからないほうがいいかも知れない。もしこれが宝物や!って見つかったら、そこから不幸が始まるかも知れないし、僕自身は今も見つからない宝物を延々探し続けている。いつの歳になっても「宝物はあるはずなんや!」と言いたい。

言い換えれば満足をしてしまった時点で、人生の意味を知ることになり、結果的に生きている意味や価値が無くなるんだとしたら、人って不安やから改めて見つからない宝物を探すことによって、今やっていることが不安だけど楽しい状態でいれると思う。これが宝ものだと見つけたら楽になるとは思うけど、本当は宝物ではないかりそめのものを、人生における宝物だと言い切ってしまうことが、果たして本当に良いのだろうかと思うことも最近はよくある。

だからそういった意味では自分が作っていた番組も後進に譲り、後輩たちも頑張ってくれているところだと、やっぱりダウンタウンDXも僕には全く宝物ではないし、もちろん読売テレビの宝物ってこと以上に、見てくれるみんなの宝物だって気がしますね。だから余白や生活もスパイスであると考える捉え方だったり、価値そのものをちょっと変えてみる視点はすごく大切だと思うよね。

たぶんそういう意味でみんなそれぞれの生き方は、自分の指標になる旗の立て方なんで、もちろん個々にいろいろあると思うけど、僕の場合は例えば会社入って番組作れたらと思って番組を作りはじめ、ずっとそれをやっていた。ただ番組制作をするのが天職なのかと常に疑問を持っていて、何かまだ他に天職があるんじゃないか。まだ延々と何か他に自分がやれることがあるのかもと思っているのが、今も続いている感じ。

みんな人それぞれあると思うけど、専門的で特別なスキルを身に付けて、そのエキスパートになっていくような生き方は、本当に誰にも真似出来ない技術を持ったり表現したりするけど、スキルを持つことで、その人の個性を表出させるすごい理由にもなっていると思う。でも自分の場合はスキルを突き詰めていく以上に拡げていくというか、たまたま読売テレビに就職したから、こういう仕事をしていたんであって、もっと専門外の全然違うフィールドでも出来ることあるんじゃないかと考えるわけ。

もともと大学時代はずっと不動産業に就職したいと思って就職活動をしていた。その理由は何かと言えば、いわゆる山間の宅地造成って、山を切って斜面に家を建てていくんやけど、家が決まりきった四角い整形地じゃなくて、不整形で森と自然と一緒に住まうことが有機的に融合しているそういう街を開発したいです!みたいなことを面接なんかでは言ってました。

最終的に不動産業界に就職したらそういうことが出来たかどうかは分からないけど、例えば住まい方で言えば、真四角がダメなわけじゃなくて、四角って決められた場所でそのレギュレーションの中でどのように自分が個性を発揮出来るように考える住まい方もあると思うし、全く形が決まっていないこの場所を、どのように自分がその場所と向き合い空間を作っていくかって住まい方もあると思う。そういう意味ではどっちもアリなんだよね。

テレビでいうと番組には進行のレギュレーションがあって、何時から始まって何時に終わるって中で、そこでの個性の発揮の仕方もあると思う。大本は決まりきっているものも、形の決まりきっていないものも、人間ってartっていわれる人工の存在だから、よりnatureに向き合えたらいいって感覚はあるかな。だからすごく思うのは別に不動産のセールスや仕組みが好きというよりも、人がどの場所に立ち、どの場所で何を選択をしているのかってことに興味がありますね。

 
 

便利さと快適さの決定的な違い

快適って言葉があるでしょ? みんなは快適って言葉を文字通りconfortableで何のストレスもなく気持ちが良いものって思うんやろうけど、でも快適と便利は実は違っていて、不便だからこその快適もあるわけやんか。だから便利と快適って絶対誤解したらあかんと思うんやんか。

今のテレビは見ていても分かりやすいし、何一つ疑問も持たず、疑問を持っても解決してくれる状況で、何一つ破綻がないようなものが多いことでいうと、要するにそれは便利なものってことだと思うんよね。その便利で快適なものを番組は作っているし、そういったものを視聴者は要求するからたぶんこれからもみんな作っていくんだろう。でもどこかで番組も快適すなわち面白いって要素で考えた場合、ちょっと考えてみないと分からない少々不便なことや、少々何か良くわからないことを込みにして番組作りを考えてみる。そうすれば快適は自分が一緒に番組を共有しているときの楽しさに置き換えられるはず。

だから自分は便利を突き詰めている人でもないから別に不便でも良い。自分が使っているものでも、一回壊れたら修理をするし、修理をした時点でそれに対して愛着が湧くわけ。要はそこで物と自分との関わりでエンゲージが出来てくる。僕なんかはもっと持っているものに手を加えることで愛着が出てくるし、出来るだけみんなには修理を奨励したいね。部品が無いときになんとか無理くり直したときの、直した商品に対する愛着って相当なものになるんでね。

クラウドファンディングの便利さの裏にある葛藤

例えばメーカーは全然違う種類同士になるけど万年筆のモンブランのようなフリクションボールペンが欲しいとする。モンブランにはフリクションボールペンで字を消せる球体みたいなものがついているから、よう消えるんちゃうか?と思ったりするんよね。気持ちはモンブラン、使っているのはフリクション。みたいなものがあったらいいなと思うわけ。万年筆も見ているのは堪らないんだよね。

万年筆とか売っている文具店とかあるやんか。どこまでいっても万年筆の道具としての神々しさはたぶん文具の中では一生潰えないものだと思うね。100万円もする硯で墨をする行為と同じように、やっぱり人が字を書いて伝えるベースとして燦然と輝くものがあり、そこにフリクションボールペンという新しい現代の道具が出てきたわけで、そのあたりはぜひ融合してほしいと思うよね。

本当に誰もやってくれへんかったら勝手に作ろうかなぐらいの想いは持ってるんでね。

クラウドファンディングも確かにアイデアを実行するための装置としては、すごくいい仕組みだとは思う。誰かに頼んで作ってもらうことをやらなくて済むし、何も分からずに作っても大外れせずに済むし、ある程度作ったときにはどれだけのモノかが分かるから、リスクを取らなくて済む極めて優れた仕組み。だから本当に素晴らしいと思うんやけど、自分が嫌なのは、例えば自分が欲しいモンブラン型のフリクションボールペンがオモロイと思ってプロジェクトを始めたときに、それに誰も反応してくれへんかったときはどうしてくれるんですかと。その場合はプロジェクトは誰にも伝わらなかったってことになるよね。じゃあそれで果たしてダメになってしまうんだろうか?

例えばクラウドファンディングではモンブラン型のフリクションボールペンはみんなに良さが伝わらなかったしダメになった。でもこっちはそれが欲しくて堪らないわけやんか。クラウドファンディングはプロジェクトの考えが伝わって賛同が集まったら成功になるわけやけど、プロジェクトが成功した場合も失敗したときも、自分が欲しいものとしては、どっちであってもこちらは何も間違ってないし正解なわけやん。こっちの持っている正解をクラウドファンディングでサクセスするかしないかで、サクセスしなかったときに、この正解は間違いになってしまうのか?という整理が頭の中で付かなくなるわけ。それが欲しい、成し遂げたいって思った時点でその人にとってそれは正しいわけやん。

例えば50万円集まらず、みんなに受けなかったから失敗だというのは、正解だと思っている人の思いとしては違っていて、自分がモンブラン型のフリクションボールペンが欲しいだけという気持ちの落とし所を失敗と括られたときに、それをどう考えたらいいのかって思いがあるんよね。最終的には、それやったら自分が50万で作ったらええですやん、そうやなってなってしまうからね(笑)

異常識という考え方

世の中の情報は思っているより多様では無いよね。これはすごく問題かなって思ってる。例えばテレビを見ていてもそうだし、Web上で見ていてもそうだけど、ある程度情報がまとめられてしまっていて、本来これだけ時代が多様だ多様だと言うなら、もっといろんなスタンスがあっていいのに、あんまり選択肢がないよね。あの考え方とこの考え方みたいな感じでだいたい2つぐらいになってるよね。考え方って良いか悪いかの二択やったっけ?みたいなね。いやいや条件付きのこういう考えとかさ、いっぱい選択肢はあっていいやんか。

でも世の中は多様な生き方とか副業だとか、マルチに拡がっていく世の中だって盛んに言ってるのに関わらずそうはなっていない。実はそれこそ昔のほうが多様だったかなって思うわけで。多様だと言った時点で、みんなが同じようにまとまりはじめて多様じゃなくなっているかも知れない。

今みんなが言っている暴走する正義、「これが常識だろうが、分からなかったらダメだろう!」というそれは、その暴走する正義側がいう常識なわけだよね。でもそれは、その人たちのムラの中だけで起こっているから、例えば同じ会社でもそうだし、同じ国でもそうだし、同じ民族でもそうだし、何だったら世界規模でも必ず違う文化があるよね。でも違う文化を認めていく行為自体について、今の暴走する正義側は、我々の常識じゃないから非常識と括ってしまうわけ。

でもこれを僕は「異常識」と呼びたい。自分たちの常識と異なるって意味で異常識。異なることを認めることが、どれだけ大切なのかを本当に伝えたいと思う。いま暴走する正義の暴人は、間違いなく自分たちの常識を押し付ける。

日本は法治国家なんで犯罪に関わるところでは不法か遵法かというラインは必要だけど、暴走する正義の人たちは、もはや法律を越えちゃっているもんね。あっちはそもそもが法律を越えているのに、何でそのアリやナシでこちらが裁かれているんだろうとなる。

そこで思うのは、向こうは暴走する正義って常識を持っているから責められるのは責められるで仕方ないと思うんですよ。だからこちらが異常識って言っている以上、僕はその人たちも認めないとダメなんですよ。それはダメ、異常識になりなさいって言った時点で、こっちがその人たちに向けて、考え方を押し付けることに等しくなってしまう。「いやそれはそうですけど、ごめんなさいね、我々は我々で異常識って文化基盤のフィールドがあるんです。だからこっちに意見を言っていただくのは分かる。でも申し訳ないですが我々はここでちゃんと遵法のやり方、しかもそのことを理解している人たちでやってるんです」というコミュニティというかフレームが出来上がっていけばいいと思う。そこにも何らかの宝物があると思うねん。

多様性って言葉に僕らは置いていかれていると思いますよね。世の中の速度が急進的で多様って言葉と同じ分だけ上がっているし、だから忖度って言葉もあったりするけど、はっきり明文化されたものではなく、明示化された価値観じゃないものを感じているから、こういった言葉が自然と出てくるわけでしょ。世の中が窮屈にもなってきているんでしょうけどね。

でもそうなった理由は経済的な側面から見ても余裕が無くなってきていたりするし、余裕がある人とない人の落差みたいなものも今まで以上にみんな感じている。だからその豊かさの指標みたいなもの自体が、どこに行ったのか分からなくなって来ている。

みんなが中流で全員が幸せだと幻想のように思えた時代は、気が付いたらどこが中流なんだろうってほどにどこかへ行ってしまった。豊かな人もいるけど、豊かじゃない人もいっぱいいるような状況に気が付いたらなってしまっていた。東日本大震災が起こったあと、そのことを更に気づかざるを得ないぐらいの状況が出てきているってことなんちゃうかな。

なぜ炎上が発生するのか?

元々の本質じゃないところで怒りが増幅されていくから、そもそも結局何だったかよく分からなくなるし。元々賛成だったのに知らん間に喧嘩していることもあるよね。文字を書くのも、昔はラブレターを書くのに代筆屋さんに頼んだり、僕にはそんな力がないから伝わるラブレター書いてくださいってお願いをするぐらい文字の力は強かったわけだからね。だから伝わる力は変わってないと思うし、今はその武器の使われ方が変わってしまったんかな。

ツイッターの仕組み自体は決して悪いわけじゃないからね。伝えていく意味では簡潔に伝えたいことを伝えて、なるほど!と思わせるって意味で、すごく良いし拡がる仕組みだと思うけど、それが本来は持っていたツイッターが果たせる役割以上に違う形で独り歩きしているのが残念やと思うけどね。もしそうやとしたらね。昔は牧歌的やったよね。そんな攻め込んでくる人もいなかったし(笑)

ええ風に吹かれたい

浜離宮はすごくいいよね。海の風も入るしちょっと寝転がって、パッと見たら都会も見える。あんなすぐ近くに緑の空間があるのに人間はきっと基本鈍感なんよ。だって浜離宮に人がひっきりなしにいるかと言えばいないよね。自分も今それを言って昔浜離宮に行った記憶が蘇ったぐらい忘れてる。浜離宮だとなんぼでものんびり出来るって思うんやけどね。

でも風自体には得るものはないからね。風は情報として得るもんはないね。感覚はあるけどね。人って感覚だけを得るのはやっぱり突き詰められないん違うかな。だけど意味なくやってしまうとか、意味なく見てしまうみたいなことは常に大切にしたいと思うね。例えば何であの人に会いたいんやろうとか、ビジネスでもないのに会いたい人とかでもあるやろうし、原因を越えた理由って自分の無意識の中にあったりする。だからそういうものをしっかりと大切にしたいかな。

何かを持ってる人には人としてのええ風みたいなんがあって、そういう人とはやっぱり会いたくなるよね。共感ベースの中で持てるそれは、みんないろんな風があるわけで、会いたくなる人が持っている風は気持ちええなって思う。気持ちがいい場所に行く理由って、たぶんそこには自分が好きな風が吹いてるってだけで理屈は関係ないよね。さっきも言ったけど、こんだけええ風の吹く浜離宮にみんな行かないということは、みんな分かっているかも知れないけど、結果的に行かないわけやんか。やっぱり日常の社会のなかでは風を感じるべきではない!というべき論になっていると思う。

さっきの余白の話で言えば、風も余白みたいなものって言えるよね。だから、なおのこと風は大切なんちゃう?

PROFILE

西田二郎

1965年生まれ。大阪市立大学経済学部卒業後、1989年読売テレビ入社。「11PM」「EXテレビ」を経て「ダウンタウンDX」を演出。1998年制作会社に出向し、あまたの放送局と番組を制作。2002年読売テレビに戻り、東京制作局チーフプロデューサーとして、人とのつながりをテーマにソーシャルな展開をいち早く取り組み、関西で話題の「ガリゲル」を演出。
現在は、営業、編成を経て事業開発にてメディアビジネスの新たなる方法論を探る。

 
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